何とか家に戻ることが出来た私がソファーに寝ていると、子供たちも”先生”も帰ってきた。
事情を説明すると”先生”は、
「何故、病院に行かなかったの?」
「どうして、電話をくれなかったの?」
などと矢継ぎ早に言った。
それから「腰は強く叩いてもらうと気持ちがいいのよ。カイロプラクティクに行く?」
と優しく言ってくれた。
時が経ち、私は遂に”我慢”が出来なくなった。
先ほどのように腰を引きずって寝室に向かった。
隣にいた娘は私を引っ張ろうとするが、私の体が動くはずはなかった。
狭い我が家がこんなにも広く感じたことはなかった。
あまりの痛さに腹ばいになりながら、両腕を使って進んだ。
耳元で娘が「大丈夫、大丈夫」と心配声で囁く。
手も足もないに等しい「オトちゃん」が運動会で頑張っているときのようだった。
歓声がこだまする。
「頑張れー、頑張れー」。
この年でお漏らしは出来ない。
子供たちの使うトイレに入るか迷ったが自分の部屋まで行くことにした。
私は「間に合うか」心配で冷や汗をかきながら頑張ったのである。
そして、間一髪のセーフだった。
それから私はそのまま自分の部屋で横になっていると、娘が腰にあてるようにと
[Heating Pad]なるものを見つけてきた。
こんなもがあったのかと思いながら使ってみたら、すぐに温まってきてなかなか
気持ちがよかった。
娘は水やデザートなどを持ってくるなど、見違えるように生き生きとしていた。
その日だけは小言を言えなかった。
「あなたは幸せ者ね。」と言いながら
”先生”がベットまで夕食を持って来てくれた。
「もうこの時間では病院はだめね。」
「あまりひどい時には、救急病院しかないわね。行く?」
「明日は、土曜日よ。」
「腰を強く叩くといいんだけどね。」
「ところで、月曜日の小沢征爾のコンサートは大丈夫?」
「貴方のためにチケットを買ったのよ。」
実は上の娘が、誕生日に何が欲しいかと聞いたので、小沢征爾のコンサートと言ってしまった。
小沢は来年からウィーンに行くことが決まっていたことが、私にラスト・チャンスと
思わせたのである。
ところが、娘はラスベガスのホテルを予約してきたので驚いたが、
ラスベガスから帰ってきてから、”先生”は小沢のチケットも購入したことを告白した。
その時、「”先生”は素晴らしい。」と感激し、私の動悸は「喜びの歌」を大合唱したのである。
誕生日だけでなくクリスマスと正月が同時にきたようだった。
私は今言われてもと思いながらも、「月曜日には治ると思うよ。」と言うのが精一杯だった。
そして「もし、行けなかったら、子供にいってもらうよ」と付け加えた。
「そーお。」
「兎に角、腰を強く叩くと気持ちが良くなるのよ。強くね。」とまた言って
部屋を出て行った。
翌日の夕方には何とか、立つことが出来るようになり、日曜日にはまだまだ痛かったが
「腰は大丈夫と宣言した。」
そして、月曜日には腰に手をあてながら、変な歩き方でコンサートに行ったのである。
ベートーベンとベリオーズのシンフォニーに満足して帰った私は、娘が出してくれた
「Heating Pad」にスイッチをいれてベットに入っていた。
暫くして、”先生”が腰をおさえて部屋に入ってきた。
「腰が痛くてね、我慢できないの。」
「腰は強く叩いてくれると気持ちがいいのよ。」
「驚愕」すると同時に、私は”鶴”の恩返しをしなければならないと思った。
ラスベガスに行ったり、小沢征爾のコンサートを聞かせてもらったのである。
一生懸命強く叩いた。
上下運動で腕が疲れ、時折、腰が刺すように痛む。
「死ぬかと思った」が頑張った。
力が足りなかったのか満足したのかは分からなかったが、
”先生”は「そんなもんでいいわよ。」と開放してくれた。
コンサートとマッサージで疲れ果てた私はすぐに寝てしまうのだが、
私の腰のところで何か動くのを感じた。
朦朧としながらも、私の「Heating Pad」が腰からなくなるのが分かった。
そして、私の腰には冷たい電気コードだけが残った。
”先生”の独り言がかすかに聞こえてきた。
「これって温かいのね。」
「もう、治ったのよね。じいちゃん」
2001年11月24日
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