私は北野 武監督の才能を高く評価している一人だが、最新作の「BROTHER」には少々落胆した。
二つの問題点がある。
一つは低予算からくる貧弱さだろう。
ロス・アンジェルスを舞台にしたこの作品は、過去の作品と較べれば最も多い予算だろうが、
巨大なイタリアン・マフィアによって打ち砕かれたようだ。
彼の作品にスケールの大きさを求めることはないが、マフィアのボスが警護不足の貧相な家で、
暮らしてはいないだろう。
二つ目は俳優である。
私はオマー・エプスの演技に興味をもっていたのだが、真木蔵人の出番が多すぎた。
私はこの男の”演技”が堪らなく辛くなる。
北野監督は過去の作品でも彼を使っているが、私にはどうしても理解が出来なかった。
彼がいい”演技”をしようとすればするほど、私の胃はムカムカしてくるのである。
この監督の作品には、多少の演技者と自分の事務所のたけし軍団が出演するのが大方である。
彼の事務所に所属していないのであれば、甚だ不可解な選択である。
真木蔵人の演技を三度ほど見ているが、学芸会を見ているようで毎回辛い思いをしてきたのだ。
その都度、私は彼の”演技”を許してきた。許さなければならなかったのである。
何故なら、私は彼の母親に人としてしては、いけないことをしていたからである。
10年ぐらい前、一人で日本に一時帰国したときのことである。
成田まで迎えに来てくれた友人が、どうしても前田美波里のショーに行かなければならないので、
付き合ってほしいとのことだった。
彼女から招待されていたのである。
私たちはホテル・ニューオータニの会場に直行した。
今日が初日で私たちの席は一番前だった。
私は機内で二本の映画を観てきたばかりで、今度はライブ・ショーである。
「ムーラン・ルージュ」を思わせる衣装と、背の高さに改めて驚かされる。
大きい眼と長い脚が観客を魅了する。
私の顔をキックするように、長い脚が宙に浮く。
狭いステージを所狭しと踊りまくる。
実は途中の記憶が全くない。
最後の観客からの花束贈呈は記憶にあるのだが、その間が全く覚えていないのである。
私はサン・フランシスコからの長旅で、すっかり寝てしまったのである。
脚が上がるたびに目が覚めるのだが、どうしても睡魔には勝てなかった。
ショー終了後も、友人がそのことについて何も言わなかったことが、余計に前田美波里に
申し訳なく思った。
一番前の席で「コックリ、コックリ」していたのであるから、友人と彼女の心境は言わずも
知れたことである。
これが真木蔵人を常に許さなければならない、果敢ない理由である。
「真木蔵人よ! 安心して観れるように演技が巧くなってくれ!」
そうなれば、君の”演技”を観るたびに、お母さんに対する「罪」を思い起こすこともなく、
君の”演技”に我慢しなければならない「罰」からも解き放たれることが出来るのです。
その暁には、私の「罪と罰」は解放されるのです。
「花(バラ)が咲く」のはいつ頃だろうか?
2001年12月3日
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