今月はサンノゼでクラフト・ショーがあった。
高校の募金活動が目的のショーである。
この種のショーは初めてだったので多少驚いたことがあった。
ボランティアの方が実に手際よく働いていたことである。
私は手押し車を持参していなかったが、台湾から来たという人懐っこい中国人が台車を持ってきて、一緒に運んでくれたのである。
その中年の中国人は、何往復も最後の荷物まで手伝ってくれた。
彼によるとその地域は中国人が多く、アジア人の割合が50%を超えるそうである。
また、ボランティアの生徒が一日中コーヒー、マフィンやクッキーのサービスをしてくれた。
中国人の女子生徒が笑顔でこの言葉しか知らないと言いながら
「こ・ん・に・ち・は」
と声をかけてくれる。
私たちが日本人であることが分かるようだ。
私も「ニンハオマ」
と答えるがその次が出てこない。私は地団駄を踏む思いだった。
何故なら、私は長い間中国語を勉強していたからである。
中学時代から社会人になるまで、あけてもくれても中国語だった。
中学高校時代は、家族や親戚も勉強会に参加するようになった。
大学時代は長時間に渡る事が多くなった。
ある日、いつものように四人で勉強会を開いているとき、時間は30時間を過ぎていた。
食事は出前。狭い部屋を覆う煙草の煙と酒がデカダンを醸し出す。
私はその時、異常な興奮を覚えていた。
そして、まさにその時である。
終盤にもかかわらず、前のTが「中」を大声をあげてなげてきたのである。
私は思わず「ロ、ローン」と叫んだ。
役満の「大三元」だったのである。
すると私の心臓は、針で刺したような痛みを覚えた。
暫くすると、鋭い刃で切り裂くような激痛が走った。
私はその日から、社会人になるまであまり「勉強会」に参加することはなかった。
同じ中国人の女の子二人がコーヒーのサービスにきた。
誰から聞いたのか
「お・元・気・で・す・か・?」
とひとりの子が言うと、もうひとりの子が
「も・っ・と?」
と言ってコーヒーをすすめた。
私は即座に「ハイ、イエス,謝々」と言うのがやっとだった。
夢中で勉強したあの「中国語」も、今は全く分からない。
もう私の「中国語」より彼女たちの「日本語」の方が上だった。
私たちはショー終了後、日本人のお客さんから聞いた中国人マーケットに直行した。
私はあまりにも日本食が豊富だったので、思わず叫んでしまった。
「アイヤー」