エドウィン・ライシャワーの自伝を読み終えた。
ライシャワーは日本が戦後復興から立ち直り、経済成長の兆しが見え始めた時代の駐日大使であり、
最も偉大な駐日大使と云えるだろう。
ケネディー大統領から駐日大使に任命されたライシャワーは、ハーバード大学で日本や中国の
研究をしていた教授だった。
宣教師である父親の縁で幼年期を日本で暮らしていたことが、東アジアに興味を持った大きな要因
であるのは明らかである。
太平洋戦争が始まると政府から諜報部に雇用される。当時は数少ない日本研究家の一人だっ
たからである。
戦後再びハーバード大学に戻るのだが、ケネディー大統領(ハーバード大出身)
に駐日大使に任命されてからは生涯に渡り
日米間のパイプ役となりより良いパートナーシップを培ったのである。
自伝の中では日本を憂い愛しむ気持ちが行間があふれているのだが、唯一つ私を憤慨させる箇所
があった。彼は終戦間際の広島原爆投下を止むを
得ないと表現しているからである。それは殆どのアメリカ人の
意見と相違ない。『降伏しない日本に致命傷を与えなければ戦争は終わらない』『このままでいると
アメリカ軍の死傷者が多くなる』と言うのである。
当時の諜報部は日本の暗号をことごとく解読出来ていたはずである。日本が壊滅状態であったことは
承知のはずである。日本が勝利を収めたのは真珠湾攻撃だけである。ミッドウエー海戦以降は後退
につぐ後退でアメリカの勝利は目前だったはずである。
オッペンハイマー博士は原爆製造にかかわったことを悔やみ、戦後は日本人の研究家をアメリカに
招き、ノーベル賞を取れるほど育成に尽力した。
私は幼年期を日本で過ごし、日本をこよなく愛したというライシャワーが、原爆投下を容認したと
いうことが許せないのかもしれない。その当時、彼が原爆投下に反対したところで受け入れられたとは
思わないのだが・・・
60年代の激動の中で、駐日大使である彼は着実に日米の絆を強くし信頼関係を培った。
彼の妻が死別したあと、再婚した相手が日本人であったことは日本政府にとっても幸運だった。
日本語が話せる大使ということだけではなく、日本人の妻を持ったアメリカ駐日大使は
多くの日本人に親しみを覚えられ受け入れられたのである。
そんな彼らが交流を目的に日本全国行脚をはじめていた。そして、我が小学校にライシャワー駐日
大使が来ることになった。ケネディー大統領がダラスで凶弾に倒れた
翌年、ライシャワー駐日大使がアメリカ大使館前で日本人青年に殺傷される数ヶ月前のことである。
当時は我々生徒よりも、先生方が有頂天になっていたように思われる。『うちの学校が特別に
選ばれたのですよ』と自慢げに言っていたのを今でも覚えている。
当日、彼はチョコレートは配らなかったが、明るい笑顔を我々にくれた。体育館での彼の
話の内容は全く覚えて
いないが、長身で長い顔からは得体の知れないオーラが溢れていたのを今でも思い出せるのである。
エドウィン・ライシャワー駐日大使は、私が始めて見たアメリカ人である。